レッドマリア それでも女は生きていく 映画評

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斉藤綾子(映画研究者・明治学院大学教授)


(前略)キョンスン監督が撮影を始めた2006 年は、米国のサブプライムローンが破綻し グローバリゼーションの余波が派遣労働者の大量解雇を生み出しただけでなく、2 年後のリーマン・ショックを予兆する時期だった。このような世界規模の高度資本主義の中で多くの女性たちがまっさきに仕事を失い、それまで何とか経済的に保っていたバランスが崩され、一拳に女性の貧困化が社会問題になりつつあった。今や、経済格差は広がるばかり。貧困層が抱える問題はますます厳しくなっている。キョンスンのカメラが収めるのは、世間の人々が目をそらしたくなるような現実の直接の被害者となっている女たちだ。 例えば、日本人の私にとって、マラヤロラの話は間いたことがあっても、キョンスンのカメラが捉えたサトウさん、イチムラさん、モニカさん、スンジャさんたちの現実を目にすることはなかった。そのことをつくづく私は思い知らされたのである。

グローバリゼーションや経済格差の拡大という21世紀的な問題に直面する女性たちがいる一方で、 過去の負の歴史を抱えている女性たちの声にも映画は耳を傾ける。マラヤロラのおばあさんたちは、日本軍の性暴力の被害者でありながらも、家族の名誉や発展の妨げになることを恐れ、彼女たちが立ち上がるには50年という歳月が必要だった。あるいは、ブクロード・センターがあるフィリピンのスービック州クラーク元米軍基地があった地域であり、 基地撒去後も歓楽街の売春がなくならないことは、太平洋戦争後のアメリ力合衆国の基地政策の負の遺産である。(中略)

このように『レッドマリア それでも女は生きていく』に出てくる多くの女たちには、一人一人の個別の物語があるが、同時に彼女たちの物語は、多くの声を上げることのできない女たちの現実に重なる。前作の『パトリオットゲーム』や『ショッキング・ファミリー』で、韓国社会における家父長性と政治、家族とジェンダーの問題を社会と個人の境界を飛び越えて鋭く切り込んできたキョンスンは、国境を越えて、女たちの現実にカメラを向けた。派遣労働者の解雇、性労働者やホームレスが直面している女性ゆえの困難さ、移民労慟者が置かれた社会的基盤のなさ。 通常、私たちはこのような女たちの話を個別の問題として、匿名的な物語として新聞やテレビ・ドキュメンタリーで耳にしたり、目にしたりする。しかし『レッドマリア』の強さは、 そのストーリーのかけらを集めて、 一人一人の物語を拾い上げながら、女たちを横に繋げて共通の視点を与えているところだ。私たちは、特定の一人の女たちに感情移入することなしに、彼女たち一人一人が、まるで一本一本色の異なる糸のように、美しい織物を紡いでいるような体験をすることになるのだ。
かつて、ゴダールは「何でも映画に入れることができる。何でも映画に入れなければならない」と言った。キョンスンはこのゴダール的使命に果敢に取り組んだ。売春と資本主義の問題に常に関心を傾けてきたゴダールのマリアは、あくまでブチブルの美しいマリアたちだった。だが、キョンスンが集めたアジアの赤いマリアたちはもっと過激だ。

映画の最後、クレジットで一人一人の女たちの後日談が語られる。そのコメン卜を読みながら、不思議な気持ちに襲われた。それは希望と勇気と優しさと、そして困難さと全てが入り交じった感情だった。女たちの身体には闘いの歴史が刻まれている。その言葉を噛みしめながら、女たちを応援し続けるぞと、私も元気をもらった。キョンスン版、「愛すべき女・女たち」よ、輝け ! ! !



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